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イラク誘拐犯をどう説得するか

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● イラク日本人人質事件を考えるための論理
              −−「人の生命は地球より重い」か

                   諸野脇 正@インターネット哲学者
                  【e-Mail】 ts@irev.org
                  【Web Site】 http://www.irev.org/
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■ 「テロリストの脅しには屈しない」
 
 イラクで日本人が誘拐された。
 犯人は、イラクからの自衛隊の撤退を要求している。そして、撤退しない場合は、人質を殺すとしている。
 小泉純一郎首相はこの要求を拒否した。次のように言ったのである。
 

 テロリストの脅しには屈しない。
 
 
 小泉首相は犯人の要求には従わなかった。これは一般的な対応である。このような場合、国際社会の常識は〈テロリストの要求には応じない〉ことなのである。
 なぜ、応じてはいけないことになっているのか。応じると、新たなテロを誘発するからである。
 
 
■ 「かくれたカリキュラム」
 
 テロリストは要求を実現するために誘拐をしている。もし、要求が実現されたとしたら、テロリストはどう考えるか。「誘拐行為が役に立った」と考えるであろう。「要求を実現するためには誘拐をすればよい」と考えるであろう。
 テロリストの要求に応ずることによって、私達は間違った「メッセージ」をテロリストに送ってしまう。次のような「メッセージ」である。
 

 テロ行為をどんどんおこなえ。
 
 
 実際、テロ行為には効果があったのである。だから、テロリストは、「テロ行為をどんどんおこなおう」と考える。つまり、テロリストの要求に応ずることによって、次のテロを誘発してしまうのである。
 このように我々の言動は、意図しない「メッセージ」を相手に与え続けている。これは、いわゆる「かくれたカリキュラム」である。(注1)
 もちろん、人質の命を救うこと自体はよいことである。しかし、「かくれたカリキュラム」まで考慮する必要がある。間違った「メッセージ」を送っていないかを検討する必要がある。
 テロリストの要求に応じれば、テロリストに間違った「メッセージ」を送ってしまう。つまり、〈要求を実現するためにはテロ行為が有効だ〉という「メッセージ」を送ってしまう。これにより、多くの人をテロの危険にさらすことになる。
 また、〈日本はテロリストの要求に屈する国だ〉という「メッセージ」を送ることにもなってしまう。そうなれば、特に日本人が狙われる。多くの日本人を危険にさらすことになる。
 
 
■ 「よど号」事件
 
 事実を見てみよう。
 

 一九七七年九月、ダッカ空港で日本赤軍に日航機をハイジャックされ、犯人の要求通り、獄中の九人の釈放と六百万ドルを支払うことを決めたとき、時の福田赳夫首相はしょうすいしきって「やむをえぬ措置だ。人の生命は地球より重い」と述べた。
 同じころ、ドイツ赤軍派はシュライアー経団連会長を誘拐、仲間十一人の釈放と金を求めた。会長の家族の嘆願にもかかわらず、シュミット首相は要求に応じない。
 十月、これと連動するアラブゲリラにルフトハンザ機を乗っ取られる。首相はソマリアのモガディシオ空港に特殊部隊を派遣してゲリラを殺し、乗客を助け出す。首相はくずおれるように泣いた。そしてほどなくシュライアー会長の惨殺死体がみつかる。〔『朝日新聞』1997.4.29〕
 
 
 日本政府は日本赤軍の要求に応じた。その後、アラブゲリラがルフトハンザ機をハイジャックしている。アラブゲリラは、日本赤軍の成功を意識していたと考えられる。
 

 テロリストの要求に応ずることは、次のテロを誘発する。
 
 
 一人の命を救おうとすると、もっと多くの命を失うかもしれない。「かくれたカリキュラム」があるからである。
 だから、シュミット首相は、要求に応じなかったのだ。
 シュミット首相自身が演説で次のような趣旨を述べている。
 

 国家の面子と人命を比べれば、誰でも人命を選ぶ。しかし、テロリストの要求に応じることは、将来多くの人命を危険にさらすことである。将来、危険にさらされるであろう人命のことを考えて欲しい。
 
 
 テロリストの要求に応ずることは、次のテロを誘発する。だから、国際社会は一致団結して〈テロリストの要求には応じない〉と決めているのだ。
 
 
■ 「全体主義」
 
 ここまでの論述を読んで、読者の皆さんはどのように感じられたであろうか。
 「何か冷たいなあ」と感じられた方もいらっしゃるであろう。
 実際、「冷たい」のである。
 小泉首相は、テロリストの要求を拒否した。
 それは、率直に言えば次のように言っているのに等しい。
 

 将来の多くの人命を救うために、あなたは犠牲になってくれ。(あなたが犠牲になっても仕方ない。)
 
 
 これは、全体のために個人に犠牲を強いているのである。つまり、「全体主義」的なのである。
 「全体主義」的な考えには違和感がある。自分の命は、かけがえのないものである。自分が死ぬことで多くの人命が助かり、トータルとして人命の被害が少なかったとしよう。しかし、それが殺される本人にとってどんな意味があるのか。自分の命は一つしかない。そして、それは、本人にとってかけがえのないものなのである。取りかえのきかないものなのである。
 「全体主義」は、人命を数として捉える。しかし、私にとって私の命は一つしかない。
 先の事件の時、シュミット首相は、〈死者が20人以上出たら退陣するしかない〉と考えていたそうである。つまり、20人まではなんとか成功という判断をしていたのであろう。
 しかし、その20人の中に自分が入ることを考えてみよう。とても、成功とは思えないであろう。個人にとっては、死者の総数が少ないか、多いかは関係ない。自分が死ぬかどうかが問題である。自分が死んでしまっては全てお終いなのである。
 
 
■ 「個人主義」
 
 福田首相は次のように言っている。
 

 人の生命は地球より重い。
 
 
 これは、次のような「個人主義」の原理を述べた文言である。
 

 個人の生命はその個人にとってかけがえのないものである。取りかえのきかないものである。本人にとっては、「地球より重い」のである。
 
 
 小泉首相は次のように言う。
 

 テロリストの脅しには屈しない。
 
 
 これは、次のような「全体主義」の原理を含意している文言である。
 

 全体の利益のために個人は犠牲になるべきである。トータルで死者が減るという理由で、個人を見殺しにするのも仕方ない。
 
 
 この二つの考え方はどちらが正しいのだろうか。
 実は、どちらも正しい。
 この二つは、観点を変えた時に見えてくる二つの面なのである。
 個人の側から見れば、「個人主義」的な面が見える。そして、全体の側から見れば、「全体主義」的な面が見える。
 
 「人の生命は地球より重い。」
 「人の生命より地球の方が重い。」
 
 どちらも正しい。
 個人の側から見れば、自分が死んでは全てお終いである。だから、自分の生命は地球より重い。
 全体の側から見れば、地球がなくなってはお終いである。地球がなくなったら、みんな死んでしまう。だから、地球は個人の生命より重い。
 
 
■ 「カテゴリー・ミステイク」
 
 「どちらが正しいか」と考えること自体が間違いなのである。それは、いわゆる「カテゴリー・ミステイク」である。(注2)異なったカテゴリーの言葉を、同じカテゴリーの言葉だと思ってしまっているのである。
 次のような例が分かりやすい。私が過労で体調不良になったとする。その時、風邪が流行していて、風邪にかかったとする。
 次の問いを考えてみよう。
 

 私の風邪の原因は体調不良か。それともウィルスか。
 
 
 何か奇妙な問いである。
 「体調不良か。それともウィルスか。」と言われても困る。両方が原因なのである。
 いや、むしろ「体調不良」と「ウィルス」は、観点を変えた時に見えてくる別種の原因なのである。
 例えば、私がメールマガジンで、「体調不良が原因で風邪になった。」と書いたとする。その時、次のような批判を受けたとしたらどうだろうか。
 

 風邪の原因は体調不良ではないですよ。ウィルスですよ。
 
 
 このように言う人がいたら、その人はたぶん少し頭がおかしい人だ。〈「ウィルス」が原因だから、「体調不良」は原因ではない〉とは言えない。両方とも原因なのだ。観点を変えた時に見えてくる二つの原因なのだ。「体調不良」と「ウィルス」は、カテゴリーが違うのである。
 逆の例を考えてみよう。
 私が医学関係の学会に出席したとする。新しいインフルエンザウィルスを発見したという発表がおこなわれている。その発表を私が次のように批判したらどうであろうか。
 

 私の経験から言うと、風邪の原因はウィルスではなく、体調不良ですよ。
 
 
 このように私が言ったとすれば、少し頭がおかしい私である。〈「体調不良」が原因だから、「ウィルス」は原因ではない〉とは言えない。
 
 
■ 「全体主義」と「個人主義」は対立しているか
 
 上の例は、誰でもおかしいと気づくであろう。
 しかし、同様の間違いを私達は犯していることが多い。社会現象を考える際に犯していることが多い。この事実は、はっきりと気づかれてはいない。
 「全体主義」と「個人主義」は、観点の違いによって現れてくる現実の二つの面である。だから、両者は対立してはいない。しかし、我々は、両者が対立していると、間違って思ってしまう。
 例えば、次のように間違って思ってしまう。
 

 人命は地球より重いから、テロリストの要求には応ずるべきである。
 
 
 確かに、「個人主義」的に見れば、「人命は地球より重い」のである。しかし、だからといって、小泉首相が「テロリストの要求には応ずるべき」とは言えない。為政者は、「全体」のことを考えざるを得ない。トータルの人命被害のことを考えざるを得ない。「全体」のことを考えない為政者は恐い。小泉首相が「テロリストの要求」に応じてしまったら、私達全員の危険が高まるのである。誘拐される可能性が高まるのである。
 しかし、次のように考えるとしたら、それも間違いである。
 

 トータルでの死者を減らすために、テロリストの要求に応じてはならない。だから、人命は地球よりも重くはない。
 
 
 確かに、「全体主義」的に見れば、「トータルでの死者」が問題である。「テロリストの要求に応じてはならない」のである。しかし、だからといって、「人命は地球よりも重くはない」とは言えない。個人にとっては、やはり自分の命は取りかえがきかないものなのだ。かけがえのないものなのだ。
 
 
■ 脳に「障害」がある私達
 
 残念ながら、私達は脳に「障害」があるのだ。
 複雑な現実を理解することが難しいのだ。
 だから、間違って次のように考えてしまうのだ。
 

 「全体主義」が正しいか。それとも「個人主義」が正しいか。
 
 
 両者を対立的に捉えてしまうのだ。だから、「全体主義」的な発言をする人物は「個人主義」が間違っていると思っていることが多い。逆に、「個人主義」的な発言をする人物は「全体主義」が間違っていると思っていることが多い。
 それはどちらも間違いである。現実は複雑なのである。両方の面を理解するべきである。
 具体的に言おう。
 小泉首相は、「テロリストの脅しには屈しない。」と言う。確かに、為政者は「全体」のことを考えざるを得ない。だから、この「全体主義」的な立場は理解できる。しかし、同時に「個人主義」的な面を考えてもらいたい。誘拐されているのは個人である。数ではない。人命は、本人にとってかけがえのないものなのだ。
 つまり、為政者は次のような人であってもらいたい。
 

 「個人主義」的な面に悩む「全体主義」者
 
 
 単純な「全体主義」者は恐い。それは、人間を簡単に数として扱うからである。
 しかし、「個人」は数ではない。為政者は、数ではない「個人」を認識するべきである。
 私は数ではない。私は人間だ。(注3)
 だから、私は「個人」としての扱いを望む。
 全ての人間は「個人」としての扱いを望んでいる。
 「全体」のためという理由で「個人」に大きな被害を強いるのは不当である。
 だから、為政者は、「全体主義」者であると同時に「個人主義」者であろうと努めるべきである。
 このことを小泉首相は覚えておいて欲しい。
 
                      (2004.10.31.)
 
 
(注1)
 
 「かくれたカリキュラム」とは、「情報の発信者が意図せずに受信者に与えている影響」のことである。
 次の例を見ていただきたい。
 
 「ある日のこと、ぼくはルースと一緒に算数の勉強をしていた。最初のうち、ぼくはいい気分だった。彼女に答えや解き方を教え込むのではなく、質問しながら彼女に考えさせている≠ニ思っていたからだ。が、勉強はどうにも捗らない。質問を重ねても、沈黙に出会うだけ。ルースは何も言わず、ただじっと座って眼鏡の奥からぼくをうかがうだけなのだ。そして、ひたすら待っている。だからぼくはそのたびに、前よりももっとやさしく、的を射た問いを考えなければならなかった。そしてしまいには、彼女が目をつぶってでも答えられる、ひどく簡単な質問へと行き着くのだった。」(ジョン・ホルト、大沼安史訳『教室の戦略』40ページ、1987年、一光社)
 
 そう。ルースは、答えを教師から引き出す「ゲーム」をしているのだ。
 教師は、「解き方」を「考えさせ」たいのだ。これが教師が意図しているカリキュラムである。
 しかし、ルースは別のことを学んでしまっている。「沈黙」しているルースに教師は答えを教えてしまっている。教師がこのような行動を続けた結果、ルースは〈考えずにただ沈黙していればよい〉と学んだ。そして今も、〈沈黙していればよい〉と学び続けているのだ。
 これが「かくれたカリキュラム」である。
 
 
(注2)
 
 ギルバート・ライルは、「カテゴリー・ミステイク」の例を次のように挙げる。
 
 「オックスフォード大学やケンブリッジ大学を初めて訪れる外国人は、まず多くのカレッジ、図書館、運動場、博物館、各学部、事務局などに案内されるであろう。そこでその外国人は次のように尋ねる。『しかし、〈大学〉はいったいどこにあるのですか。私はカレッジのメンバーがどこに住み、事務職員がどこで仕事をし、科学者がどこで実験をしているかなどについては見せていただきました。しかし、あなたの〈大学〉のメンバーが居住し、仕事をしている〈大学〉そのものはまだ見せていただいておりません。』」(傍点を山括弧で表した。)(坂本百大・宮下治子・服部裕幸訳『心の概念』みすず書房、1987年、12ページ)
 
 残念ながら、この外国人は「大学」を見ることは出来ない。今まで見たものとは別の「大学」を見ることは出来ない。「大学」とは、今まで見たもの全てをまとめる概念なのである。
 例えば、図書館の建物を指さしながら、「これは図書館ですか。それとも、大学ですか。」と言ったとする。これは全く奇妙な問いである。カテゴリーの違いを理解していない問いである。「大学」と「図書館」とは異なったカテゴリーに属しているのである。
 
 
(注3)
 
 天声人語は言う。
 
 「30日夜、米ABCテレビのニュースショー『ナイトライン』は、イラク戦争で死亡した700人を超える米兵の名前を延々と読み上げた。画面には彼らの写真が次々と流れ、終了までに40分を費やした。……〔略〕……制作者は『数字として計算される戦死者から、顔も名前もある一人の人間に戻ってもらう儀式だ』と語る」(『朝日新聞』2004.5.2.)
 
 これはよい「儀式」である。
 写真と言わず、ビデオを流せばよい。本人が書いた手紙などを読みあげればよい。その方が人柄が伝わる。「人間」として認識しやすくなる。
 もちろん、そうなれば、40分では済まないだろう。気にすることはない。とても重要な事実なのである。24時間、流せばよい。ケーブルテレビで、専用のチャンネルを作ってもよい。
 また、インターネットならば、時間の制約はない。数としての「戦死者」を「人間」にするサイトを作ろう。


〔補〕

 イラクで人質になっていた香田証生氏が殺害されました。
 誠に痛ましい結果となってしまいました。
 残念でなりません。
 
 上の文章は、大筋で香田氏の事件が起こる前に書いたものです。

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 ◆インターネット哲学【ネット社会の謎を解く】◆ 54号掲載
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