メールマガジン発行中
最新情報は ブログ「諸野脇
正の闘う哲学」 で
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
● リンクに許可は必要か
諸野脇 正@インターネット哲学者
【e-Mail】 ts@irev.org
【Web Site】 http://www.irev.org/
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■ 「ならず者」漫画家・西原理恵子氏
西原理恵子氏は、ならず者国家ならぬ「ならず者」漫画家である。
西原氏は「税務署とは一年以上闘って」いると言う。
「ならず者」らしい次の発言を味わっていただきたい。(中村うさぎ氏との対談である。)
うさぎ 税金は払わない、と。
サイバラ うん、絶対払わない。
うさぎ 払わなかったら、あの手この手でしょう? 税務署も。
サイバラ だって、訴訟でもなんでもどうぞ、って言ってるもん。
……〔略〕……
−−− では、西原さんは、税金を払わないのだけが犯罪で……。
サイバラ 犯罪じゃない、取る国が泥棒。自衛ですよ。私、日本人じゃなくたっていいんだもん。べつに日本国籍、いらないもん。カンボジアに行ったら、百ドルで国籍買えるもん。
……〔略〕……
うさぎ ……〔略〕…… 私、西原さんのほうが人でなしだと思うな、税金に関しては。
サイバラ それは、払っているあんたのほうがアホ。こんな国に払ったからって、何をやってくれるって言うんですか。命の次に大事なものですよ、お金は。
〔中村うさぎ『人生張ってます 無頼な女たちと語る』小学館文庫、200
1年、171〜181ページ〕
|
「犯罪じゃない、取る国が泥棒」・「払っているあんたのほうがアホ」、心を打つ言葉である。
西原氏は「ならず者」漫画家である。ここでの「ならず者」は褒め言葉である。〈自分の信ずることを常識にとらわれずおこなう者〉というような意味である。
私は、西原氏の「ならず者」性に注目している。西原氏の著作の多くを読んでいる。「ならず者」の考えが分かり、勉強になる。
■ 「ならず者」漫画家がリンクの許可を求める?
しかし、西原氏のホームページで、「ならず者」らしくない漫画を発見した。
この漫画の中で、西原氏は次のように言っている。
「自分でメールを出してリンクの許可をもらったよ。」
つまり、リンクを張る前に、リンク先のホームページの作者に許可を求めたのだ。〈リンクを張ってよいかどうか〉を訊いたのだ。
当然、ある疑問が頭に浮かぶ。
リンクの許可を求めるのは、「ならず者」らしくない。黙ってリンクを張ればよいではないか。税金を払わないのだから。
■ リンクに許可が必要だという常識は間違い
リンクを張るのに許可が必要だという常識がある。許可を取ることがマナーだという常識がある。「ならず者」ですら従ってしまうほど、かなり一般的な常識である。
この常識は正しいか。
正しくない。
無断で張るのが正しいマナーである。許可を求めずに張るのが正しいマナーである。
西原氏の行動はマナーに反している。また、西原氏は、その意図とは関係なく、間違った考えを広めてしまっている。許可が必要だという考えを広めてしまっている。残念である。
なぜ、リンクは無断で張るのが正しいのか。
以下、詳しく説明する。
■ ホームページを公開する意味
ホームページの作者は、多くの人に見てもらいたいと願っているのか。
それとも、そう願っていないのか。
これは容易に想像できる。多くの人に見てもらいたいと願っているのである。〈ホームページのアクセスが少なくて困っている〉という話はよく聞く。しかし、〈アクセスが多すぎて困っている〉という話は聞いたことがない。ホームページの作者は、多くの人に見てもらいたいと願っている。
そう願っていないならば、普通、ホームページを公開しない。別の形式を選ぶ。
多くの人に見て欲しくないなら、ホームページなど作らない。
|
ホームページは、情報を広く公開する形式なのである。wwwで公開されたホームページには、世界中の人がアクセス可能である。まさに、ワールド・ワイド・ウエッブである。ホームページは、情報を広く公開する形式である。
だから、〈ホームページ作者は多くの人に見てもらうことを意図している〉と想定できる。(意図していない例外的な事例については後で論ずる。)
ホームページを作る行為自体から、〈作者は情報を広く公開することを意
図している〉と想定できる。
|
ホームページ作者は、ホームページという形式を選んでいる。だから、〈情報を広く公開することを意図している〉と想定できる。ホームページ作者に公開の意図が存在すると想定できる。
■ リンクは読者の紹介
リンクを張ると、実際には、どのような影響があるのか。
読者を増やす影響がある。
リンクを張ることは、読者を紹介する行為である。読者を増やす行為である。
あるページから、あるページへリンクを張る。リンクをクリックすると、リンク先のページが表示される。ページそのものが表示される。
つまり、リンク元からリンク先へ読者が移動したのだ。言いかえれば、リンク先のホームページの読者が増えたのである。
これは、まさしくホームページの作者が望んでいることである。リンクは、ホームページの作者が望んでいる状態の実現を助けている。
リンクを張ることは、ホームページの作者の意図に沿った行為である。
|
ホームページの作者は、多くの読者に読んでもらうことを意図している。リンクを張ることは、その意図に沿った行為である。読者を増やす行為である。
そのような行為に許可は必要ない。
■ 許可を必要とした場合、無駄な労力を使うことになる
もし、許可を取ることがマナーとなったら、どうなるであろうか。
インターネット社会全体で、無駄な労力を使うことになる。リンクの許可を求めるメールを書くことになる。また、それに応えるメールを書くことになる。
しかし、どちらも本来は必要ないのである。リンクを張るのはよいに決まっている。無断ですればよい。許可を取ることがマナーとなったら、必要ない行為をしなくてはいけなくなる。社会全体で無駄な労力を使うことになる。
リンクの許可を取ることがマナーとなったら、インターネット社会全体で本来必要ない労力を使うことになる。
|
具体的に考えてみよう。次のようなメールをもらったとする。
「リンクの許可をいただけますでしょうか。」
このようなメールをもらったら、ホームページの作者の多くは許可するかどうかを考えるであろう。(本当はそう考えてはいけないのだが。)緊張するであろう。今までの人生で、許可を与えたことなどあまりないからである。許可を与えたら、〈何か責任が生じるのではないか〉などと考える。(実は、この心配は正しい。この論点は後で詳しく論ずる。)相手側のホームページを見に行く。思い悩む。そして、返事のメールを書く。大変、労力を使う。
それに対して、例えば、次のようなメールをもらったらどうであろうか。
「リンクを張らせていただきました。ありがとうございました。」
ホームページの作者は、思い悩まずにすんだであろう。お礼を言ってもらえば、うれしい気持ちになる。それで済むのである。簡単に済むのである。
しかし、許可を取ることがマナーとなったら、簡単ではない。インターネット社会全体で本来は必要ない労力を使うことになる。
■ 許可を必要とした場合、インターネット社会の発展が阻害される
許可が必要だとするマナーは、インターネットにどのような影響をもたらすのか。
リンクの総数を減らす影響をもたらす。
許可を取るのは面倒である。〈そんな面倒なことならしたくない〉と考えるのが人情である。
リンクの許可を取ることがマナーとなったら、リンクの総数が減る。
|
インターネット社会全体を考えてみよう。
リンクは、たくさん張られていた方がよいのか。それとも、張られない方がよいのか。
もちろん、たくさん張られていた方がよいのである。
情報がインターネット上にたくさんあったとしても、それにアクセスできなければ無いも同然である。リンクが無ければ、情報にアクセスできない。
リンクは評価である。リンクを張った人が、〈この情報は読む価値がある〉と評価したのである。インターネット上の情報は、リンクによって評価されるのである。(注1)
このような評価が多様におこなわれる方がよい。
リンクによる評価が多様におこなわれることによって、インターネットは使える状態になっている。情報が見つけられるようになっている。〈リンクによってインターネットは出来ている〉と言ってもよい。
リンクは、インターネットをインターネットたらしめる中核的な仕組みで
ある。
|
許可が必要だとするマナーは、この中核的な仕組みの働きを阻害する。リンクを減らす。情報を見つけにくくする。だから、次のように言える。
許可が必要だとするマナーは、インターネット社会の発展を阻害する。
|
このマナーは、リンクの数を減らす。たくさんのリンクが張られる望ましい状態の実現を阻害する。多様な評価の実現を阻害する。つまり、インターネット社会の発展を阻害するのである。
■ 「訴訟問題に発展しても知りませんよ。」
利用者参加型の検索サイトの立ちあげに関わったことがある。(注2)
役立つホームページを利用者に登録してもらう。その登録によって、検索サイトを作るのである。
登録フォームを作り、ホームページを登録してもらおうとした。
しかし、問題が起こった。登録フォームに担当者が次のような文言を書き込んだのである。
つまり、〈登録者がリンクの許可を取れ〉というのである。ホームページを登録する前に、〈推薦するホームページの作者から許可を取らなければいけない〉というのである。
これでは登録する気にならない。
何とかしなくてはいけない。
直ぐに、リンクに許可は必要ないことを担当者に説明して、この文言を削除するように言った。すると、彼は奇妙なことを言い出したのだ。
……。
そんなものに「発展」しません。
悪くないのだから。
役立つホームページとして登録されて怒る作者はほとんどいないであろう。まして、訴訟を起こす作者などいないであろう。(注3)
何とかこの担当者を説得して、先の文言を削除した。しかし、危ないところであった。
■ どう規則を作るか
〈登録者がリンクの許可を取る〉という規則(マナー)を決めるとどうなるか。
ホームページの登録が減る。そんな面倒なサイトで登録したくないと考えるのが人情である。これでは登録型の検索サイトは成立しない。
これは典型的な例である。
非現実的な規則がインターネットの発展を阻害する例である。
どのような規則を作っておくと、インターネットは発展するのか。進歩するのか。役に立つようになるのか。
リンクの許可の問題は、このような問題である。ある規則を作ると、インターネットが発展しやすくなる。別の規則を作ると、インターネットが発展しにくくなる。
規則は、そのような影響を考えて作らなくてはいけない。
ある規則を作った場合、社会にどういう影響がもたらされるかを考えよう。
インターネット社会が発展するように規則を作ろう。
|
規則がインターネット社会に与える影響を考えよう。規則はインターネット社会が発展するように作ろう。(注4)
リンクの許可は必要ない。
そのように規則を定めておいた方が、インターネット社会が発展する。
■ 「リンク禁止」?
「リンク禁止」を表示しているホームページがある。
このようなホームページをどう考えるか。
私は、このようなホームページを見ると、ほとんどの場合、率直に言って次のように思う。
奇妙な行為なのである。
この作者は、ホームページを見てもらいたいのか。見てもらいたくないのか。
ホームページを公開する行為と「リンク禁止」にする行為とは両立しない。矛盾する。
だから、私は「アホか。」と思う。
確かに、例外的に、そう思わない場合もある。私的なホームページの場合である。例えば、A大学B研究室同窓会ホームページのような場合である。このホームページには掲示板があり、同窓の者だけで交流しているとしよう。それ以外の者の参加は望んでいない。このホームページが「リンク禁止」としたとしても、さほど奇妙ではない。最初から、私的なホームページなのである。
ただ、このような場合は最初から問題が起こらない。リンクをしたいと思う人がほとんどいないからである。だから、「リンク禁止」を表示するまでもない。
実際に問題が起こるのは、公的なホームページの場合である。重要な情報を発信しながら、「リンク禁止」をした場合である。多くの人がリンクを張りたいと思うようなホームページが「リンク禁止」をした場合である。
■ 権利と意向を区別しよう
そのようなホームページにリンクを張りたい時は、どうしたらよいのか。
「リンク禁止」は、確かに「アホ」な行為かもしれない。しかし、「アホ」な行為でも、本人がそう望んでいるのである。意向を尊重する大人の判断もありうる。リンクを止める判断もありうる。穏やかな判断である。
しかし、それは、ホームページ作者に「リンク禁止」をする権利があるということを意味しない。意向を尊重してもらっただけである。
権利と意向とを区別する必要がある。
簡単な例を挙げよう。
うなぎである。昼食にうなぎを食べたかったとしよう。私は「うなぎが食べたいな。僕はうなぎだ。」と友人に言う。「それじゃ、そうしよう。」と友人が応える。彼は一緒にうなぎ屋に行ってくれた。
しかし、この場合、私には彼にうなぎを食べさせる権利があるのか。権利がある訳ではない。私の意向を友人が尊重してくれただけである。
「リンク禁止」もうなぎと同様である。「リンク禁止」をする権利がある訳ではない。意向を尊重してもらっているだけである。
■ 意向は無視してもよい場合がある
世の中には、どうしても意向を尊重できない場合がある。例えば、彼がうなぎアレルギーだったとしよう。うなぎを食べると、全身にじんましんが出て呼吸困難に陥る。このような場合、昼食をうなぎにすることは断るであろう。
同様に「リンク禁止」という意向を尊重できない場合もありうる。例えば、ネズミ講に勧誘するホームページについて注意を促す場合を考えてみよう。自分のホームページから「これはネズミ講です。要注意。」と書いて、ネズミ講ホームページにリンクを張る。当然、ネズミ講ホームページ側は不満である。「リンク禁止」を主張する。このような場合は、「リンク禁止」という意向を尊重しないであろう。無視するであろう。ネズミ講を告発することを重視するからである。
「リンク禁止」は当然の権利ではない。「リンク禁止」という意向を尊重できない場合もありうる。
「リンク禁止」は意向である。「うなぎが食べたいな。」と同じである。
「リンク禁止」と書いてあったら、「リンクはしないでね。お願い。」と読み換えよう。
うなぎが食べたければ、食べればよい。食べたくなければ、食べなくてもよい。
同様に、「リンク禁止」に納得いかなければ、意向を無視してもよい。
■ 「リンク禁止」は当然の権利ではない
「リンク禁止」を表示するホームページのほとんどは「禁止」する理由を述べていない。なぜ、「禁止」するのかを説明していない。「禁止」が当然の権利だと考えているのであろう。しかし、それは当然の権利ではない。
これは、リンクと盗みとを比べると分かりやすい。リンクと万引きとを比べてみよう。
「万引き禁止」ならば、それは当然の権利であろう。万引きは店に必ず被害を与える。店には商品を万引きされない当然の権利がある。万引きが悪いのは常識となっている。だから、特別に「万引き禁止」と表示する必要もない。〈万引きは一般的に悪い〉のである。
しかし、「リンク禁止」は、どうだろうか。リンクは万引きと同じように悪いのか。同じように悪くはない。
リンクは、既に公開されているホームページへの読者の紹介である。これはホームページに必ず被害を与える訳ではない。逆に、大筋でホームページに利益を与えている。読者の紹介は一般的に悪い行為ではない。だから、〈リンクは一般的に悪い〉という論は立てられない。「リンク禁止」は当然の権利ではない。
■ 意向の理由に注目しよう
「リンク禁止」は、〈私はリンクを望んでいない〉という意向の表明である。
意向を表明するのは、意向を尊重してもらいたいからであろう。
しかし、私は、意向を尊重しようという気にならないことが多い。それは「アホか。」と思うからである。「リンク禁止」の必要性を感じられないからである。「リンク禁止」の理由が全く分からないからである。「リンク禁止」ホームページのほとんどは、その理由を説明していないのである。
「リンク禁止」は、既に述べたように奇妙な行為なのである。そのような奇妙な意向を尊重しようという気にはなりにくい。
しかし、ホームページの作者は意向を尊重して欲しいのであろう。それならば、ホームページの作者は意向の理由を説明するべきである。なぜ「リンク禁止」にするかを説明するべきである。理由の説明無しでは「リンク禁止」の必要性が伝わらない。それでは、「リンク禁止」という意向を無視されても仕方ない。
作者は、ホームページ上で「リンク禁止」の理由を説明するべきである。はっきりと、理由を明記するべきである。
理由が明記してあれば、「リンク禁止」の必要性があることが理解できる。または、必要性が無いことが理解できる。
リンクを張りたい者は、意向の理由に注目しよう。その理由が正当かどうかを判断しよう。また、リンクを張りたい理由と、「リンク禁止」の理由とを比べてみよう。(注5)
■ 「リンク禁止」まとめ
まとめよう。
「リンク禁止」は無視して、どんどんリンクを張ってもよい。
|
まとめすぎた。(注6)
もう少し、詳しくまとめよう。
それは、〈私はリンクを望んでいません〉という意向にすぎない。
〈ホームページ公開〉をしながら、「リンク禁止」をするのは奇妙である。
だから、ホームページの作者には「リンク禁止」の理由を述べる責任がある。
理由が書いていない場合は、意向を無視されても仕方ない。
理由が書いてある場合は、その理由が正当かどうかを判断すればよい。
|
「どんどんリンクを張ってもよい」は、確かに「まとめすぎ」である。
しかし、リンクを張る側の意識としてはこれでいい。
「リンク禁止」のホームページのほとんどは理由を書いていない。理由を述べる責任はホームページ作者にある。理由をはっきりと説明された場合に、じっくり考えればよいのである。
■ 「リンク許可の要求」も同様に考えればよい
「リンク禁止」はしないまでも、「リンク許可の取得の要求」をするホームページがある。「このホームページへのリンクには許可が必要です。」などと書いてあるホームページである。
これをどう考えるか。
「リンク禁止」と大筋で同様に考えればよい。
同様にまとめよう。
「リンク許可の取得の要求」は、当然の権利ではない。
それは、〈私はリンクの許可を取って欲しいと思っています〉という意向にすぎない。
〈ホームページ公開〉をしながら、「リンク許可の取得の要求」をするのは奇妙である。
だから、ホームページの作者には「リンク許可の取得の要求」の理由を述べる責任がある。
理由が書いていない場合は、意向を無視されても仕方ない。
理由が書いてある場合は、その理由が正当かどうかを判断すればよい。
|
〈ホームページ公開〉をしたのは多くの人に見てもらいたいからであろう。リンクは、読者を増やすのである。相手の意図に沿った行為である。
そのような行為に、なぜ「許可」が必要なのか。「許可」をしない場合があるのか。そうならば、どのような場合に「許可」しないのか。
理由を説明してもらわないと、「許可」の必要性が全く分からないのである。
■ 「リンク許可」の権限があるとかえって困る
「リンク許可の取得の要求」には別種の問題もある。「リンク許可」の権限があるとかえって困るという問題である。責任を問われるおそれがあるのである。
例えば、次のような文言が書いてあるホームページがある。
このホームページへのリンクには許可が必要です。……〔略〕……リンクをお断りすることがあります。
|
私は、率直に言って次のように思う。
まず、次のことを確認しよう。リンクを張るのは、他人がすることである。「リンク許可の取得の要求」をするホームページ作者は、他人の行動をコントロールできると考えているのであろう。他人のホームページをコントロールできると考えているのであろう。
しかし、これは非現実的な考えである。インターネットの現実をふまえていない考えである。相手が意図的にリンクを張ってきたら、「お断り」するのはほとんど不可能である。
例えば、すごく反社会的なホームページから私のホームページにリンクが張ってあったと仮定しよう。〈ピカチュウ虐待ホームページ〉からリンクが張ってあったと仮定しよう。このホームページでは、ピカチュウをバットで打ったり、燃やしたりしている。誠に反社会的である。
〈ピカチュウ虐待ホームページ〉(現存しないので、Internet
Archive により復元した。)
このようなホームページからリンクを張られるのは、確かに不愉快である。しかし、リンクを止めさせる方法は、ほとんど無いのである。リンクを「お断り」する方法は、ほとんど無いのである。具体的に考えていただきたい。このホームページの作者に「リンクを止めよ。」とメールを出すことは出来る。しかし、メールなど無視されるであろう。ピカチュウを燃やすほどの反社会的ホームページである。素直にリンクを止めてくれるとは思えない。無視されたら、私が打てる手はほとんど無い。実際には、リンクを止めさせることは出来ないであろう。
だから、リンクに許可を要求することは危険である。「許可の取得」を要求することは、自分がリンクに責任を持つと主張することを含意する。(例えば、建築許可の取得を要求するならば、無許可の建築を取り締まらなければならなくなる。)
その場合、次のような批判を受ける可能性がある。
なぜ、諸野脇は、あのようなホームページからのリンクを許可したのか。
ピカチュウ虐待を認めているのか。
|
「認めて」いません。
ピカチュウを燃やしてはいけないです。
このような批判を受けるのは困る。私にそのようなことを言われても困る。実際には、リンクを止めさせることは出来ないであろうからである。リンクに責任を持つことは非常に困難である。不可能に近いのである。(注7)
リンクを止めさせることが出来ないので、そのリンクを放置したとする。そうすると、そのリンクが「許可の取得」をしたもののように見えてしまう。ホームページでは「リンク許可の取得の要求」をしているのである。だから、「無許可」のリンクも、第三者には「リンク許可の取得」をしているように見える。
これは「リンク許可の取得の要求」に特有の問題である。「リンク禁止」には無い問題である。「リンク禁止」ならば、その表示を無視したリンクだということは第三者にも分かる。それに対して、「リンク許可の取得の要求」では、その表示を無視したリンクだとは分からない。
これは、かえって危険である。リンク許可の権限があるとかえって困る。責任を問われるおそれがあるのである。
■ どうすればよいのか
以上、次の三つの場合を検討した。
1 リンクについて何の表示も無い場合
2 「リンク禁止」の表示がある場合
3 「リンク許可の取得の要求」の表示がある場合
どうすればよいのか。
全ての場合に共通して言えるのは次のことである。
まず、強くこのように思ってもらいたい。
リンクを張るのはよい行為なのだ。よい行為をするのだから、堂々としていればよい。リンクによってインターネットは役に立つものになっているのだ。
ホームページの公開は、多くの読者に読んでもらうためにするものである。リンクは読者の紹介である。だから、リンクは、リンク先のホームページに利益を与える。
それは2・3の場合もである。いかなる条件を付けているホームページも、リンクによって利益を受ける。「リンク禁止」のホームページにリンクを張ることは、相手のホームページのためになる。(先に説明したような例外的な私的ホームページを除いて。)
「リンク禁止」のホームページに無断でリンクを張ろう。
それは、「リンク禁止」のホームページのためである。
|
「リンクは張ってもよいに決まっている」と思おう。
リンクについて悩むこと自体がコストなのである。「このホームページにリンクを張ってもよいのか」と考えること自体がコストなのである。そう考える必要はない。「よいに決まっている」と思おう。
そう思っていてよいのである。そう思っていても特に問題は起こらない。
「リンク禁止」が必要である理由を述べる責任は相手側にある。その必要があるならば、相手が説得してくるはずである。「このホームページにはリンクを張ってはいけないな」と思わせようとしてくるはずである。説得された場合だけ、リンクを止めればよい。
それでは、一つずつ説明する。
「リンク禁止」等の表示が無い場合は、もちろん無断で張ればよい。許可無しでリンクを張ればよい。何の連絡も無しにリンクを張ってもよいのである。
しかし、連絡したい場合もあるだろう。ホームページの作者と交流したい場合もあるだろう。そのような場合は、次のようなメールを出せばよい。
リンクを張らせていただきました。ありがとうございました。
|
事後にお礼をすればよいのである。事前に許可を求めなければよいのである。許可を求めるのは、既に論じたように悪影響がある行為である。それに対して、お礼をするのはそのような悪影響のない行為である。よい影響がある行為である。(私自身は、お礼をすることが多い。)(注8)
2・3の場合はどうか。まず、「リンク禁止」・「リンク許可の取得の要求」が権利だという考えを変える必要がある。「リンク禁止」・「リンク許可の取得の要求」などの表示は絶対に守る必要があるという考えを変える必要がある。
それは意向にすぎない。それも奇妙な意向である。
だから、原則は1の場合と同じである。「どんどん無断でリンク」である。実際には、意向を尊重する必要性がある場合の方が例外的なのである。
確かに、意向を尊重する必要性がある場合もある。少し注意が必要な場合もある。例えば、既に説明したような仲間内の私的なホームページの場合である。
しかし、公的なホームページの場合は、ほとんど注意は必要ない。情報を広く伝えようとしているホームページの場合は、ほとんど注意は必要ない。多分、そのホームページの作者は、間違ってそのような行為をしてしまったのである。何か考え違いをしているだけである。(この論点は、稿を改めて詳しく論ずる。)
そして、その意向を守る必要性があるならば、相手が説得してくるはずである。理由を述べるはずである。
だから、2・3の場合も、どんどんリンクを張ればよい。無断でリンクを張ればよい。
■ 「ならず者」でいこう
先の漫画のページをもう一度確認していただきたい。
下の方に次のような表示がある。
奇妙な意向である。氏は、漫画を見てもらいたいのか。それとも、見てもらいたくないのか。(注9)
「特にお断り」の理由も書かれていない。これでは、「特にお断り」にする必要性が全く分からない。
また、この漫画は間違った考えを広めている。リンクに許可が必要だという考えを広めている。
だから、この考えの間違いを指摘する必要がある。そのためにはリンクを張ることが必要である。意向を無視するしかない。
西原氏風に言えば次のようになる。
私は「ならず者」哲学者だ。
自分の信ずることをおこなう。
読者の皆さんも、自分の信ずることをおこなってもらいたい。常識にとらわれないでもらいたい。
リンクは無断で張ろう。
「許可無し」で張ろう。
「ならず者」でいこう。
(2003.4.1.)
〔ホームページでの公開にあたって 2008.11.30.〕
この文章は、2002年4月から2003年4月にかけてメールマガジンで公開した文章をまとめたものである。
ホームページでの公開を望むメールもいただいていた。
それにもかかわらず、実際にアップするまでに6年近くが経ってしまった。
申し訳ない。
書き直しを考えて、時間が経ってしまったのである。
結局、元の文章のままアップすることにした。6年前にこのような文章を書いたという歴史的な事実を尊重したのである。
しかし、この文章が古くなっていないことが恐ろしい。(苦笑)
(注1)
インターネットは多様な評価の集合体である。この点は次の文章で論じた。
「ノーベル賞が無かったらキャベツ男だった白川博士
−−インターネットの評価機能」
(注2)
次のサイトである。
kyositu.com
(注3)
もちろん、訴訟になっても勝てる。法律的に問題はない。
社団法人 著作権情報センター
「Q
無断でリンクを張ることは著作権侵害となるでしょうか。」
(注4)
もちろん、その規則によって大きな被害を受ける人が存在しないことが大前提である。全体として利益の大きい規則でも、特定の人に大きな被害を与える場合は、採用しないのが原則である。
しかし、この場合、大きな被害を受ける人は存在しない。リンクの許可は原則として必要ないと規則を定めても、大きな被害を受ける人は存在しない。ほどんどのホームページは多くの人に見てもらうことを前提にしている。
また、それを望まない者は、自ら「リンク禁止」を明示すればよい。そして、リンクを張る側は、そのような表示がある場合に注意すればよい。そうすれば、大きな被害を受ける人は存在しなくなる。
念のため確認しておく。リンクは原則自由なのである。例外的にリンクを望まないホームページがある。だから、その場合は、リンクを望まないホームページが「リンク禁止」を表示するべきである。一般のホームページが「リンク自由」と表示しなくてはいけない訳ではない。
(注5)
私は、「リンク禁止」ホームページのほとんどにはリンクをしても構わないと思っている。さらに言えば、リンクをした方が、それらのホームページの利益になると思っている。
それらの「リンク禁止」は間違っている。「リンク禁止」にする正当な理由が存在していない。実際には「リンク禁止」によってそのホームページ自身が損をしているのである。
それらの「リンク禁止」ホームページは、どんな理由で「リンク禁止」にしているのか。それは、なぜ間違っているのか。具体的にホームページを取りあげて論じたい。しかし、これを論ずると文章が長くなりすぎる。稿を改めて詳しく論じたい。
(注6)
もちろん、わざと「まとめすぎた」のである。
なぜか。現状では、〈「リンク禁止」に従うのは当たり前である〉という考えを持っている人が多くいるからである。その人達の考えを変えるアドバイスをしたいからである。インパクトがあるアドバイスをしたいからである。
つまり、私は、人間を気にしたのである。「リンク禁止」の事実を描写するだけではなく、その描写を解釈する人間をも考えたのである。これはいわゆる〈語用論〉の範囲に踏み込んだことになる。
記号論には次のような基本的な概念がある。言葉と対象の関係を考えるのは〈意味論〉である。さらに、言葉と対象に加え、言葉を解釈する人間をも含めて考えるのが〈語用論〉である。
私は、この〈語用論〉の範囲の検討をしたのである。さらに言えば、私は、この部分では〈意味論的正確〉ではなく〈語用論的適切〉を選んだのである。
確かに、詳しくまとめた方のようにアドバイスした方が「正確」である。さらに、まとめる前の長い描写の方が「正確」である。
しかし、それでは複雑すぎる。実際にどう考えればよいのかが分かりにくい。何をすればよいのかが分かりにくい。だから、間違った考えを変えにくい。現実の行動を変えにくい。つまり、アドバイスとして「適切」ではないのである。
「正確」に描写すればするほど、アドバイスとして不「適切」になることがある。
今回の文章では、この問題の解決が難しかった。
(注7)
「無許可」でリンクを張ってくるホームページの全てを確認することは難しい。ホームページはたくさんあるのである。
だから、気になることがある。「リンク許可の取得」を要求するホームページは、本当に「無許可」のリンクを取り締まっているのか。実体は、ほとんど何もしていないのであろう。それは問題である。〈正直者が馬鹿をみる〉状態になっているのである。
さらに、きちんと相手がリンクの「許可」を願ってきたとしても問題がある。「許可」してよいかどうかを一つひとつのホームページについて判断しなくてはならなくなる。これは大変手間がかかる。〈「許可」願いを送ったのに三ヶ月たっても返事がない〉という声を聞いた。手間がかかりすぎ、事務処理が滞っているのであろう。
(注8)
もちろん、事後ではなく、事前にお礼をしてもよい。(悪いのは、許可を求めることである。)
次のようなメールを出してもよい。
リンクを張らせていただく予定です。ありがとうございます。
|
どうしても気になるのならば、次のように一言付け加えればよい。
何か不都合がございましたら、ご連絡いただければ幸いです。
|
逆に次のような許可を求めるメールをもらった時は、どうすればよいのか。
次のように応えればよい。
ありがとうございます。リンクには許可は必要ありません。どうぞ、ご自
由になさって下さい。
|
「許可する。」と言ってはいけない。リンクは許可が必要な行為ではない。
だから、お礼をすればよい。「許可は必要ありません。」と言えばよい。
(注9)
西原氏はインターネット上に漫画を公開して下さっている。
プロの漫画家が無料で公開して下さっているのである。
ありがたいことである。
これは「お断り」問題とは別の問題である。
誤解があるといけないので、念のため、そのありがたさを強調しておく。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
◆インターネット哲学【ネット社会の謎を解く】◆ 30、32、33、34号掲載
【筆者】 諸野脇 正 (しょのわき ただし)
メールマガジンの登録・解除・バックナンバー閲覧は次のページから。
http://www.irev.org/file/touroku.htm
この文章は、リンク、転送、転載、複写、大歓迎です。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━