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● 「チーズはどこへ消えた?」は不倫のすすめ
                    −−思考には「乱れ」が必要である

                  諸野脇 正@インターネット哲学者
                  【e-Mail】 ts@irev.org
                  【Web Site】 http://www.irev.org/
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■ 不倫のすすめ
 
 寓話「チーズはどこへ消えた?」は不倫のすすめである。
 「変化にすばやく適応せよ」とは、〈新しい恋人にすばやく乗りかえろ〉という意味である。
 そう思いながら、私は次の文章を読んだ。
 

 新しいチーズをみつけ味わっているところを想像するにつけ、ホーは、チーズ・ステーションCを離れなければと思った。
 「出かけよう!」ふいに、彼は叫んだ。
 「だめだ」ヘムはすぐさま答えた。「ここがいいんだ。居心地がいい。ここのことなら、よくわかっている。ほかのところは危険だ」
 「そんなことはないよ」ホーは言った。「以前、迷路の中をずいぶんあちこちへ行ってみたじゃないか。もう一度行ってみようよ」 〔スペンサー・ジョンソン著、門田美鈴訳『チーズはどこへ消えた?』扶桑社、2000年、34ページ〕
 
 
 ホーは不倫奨励派である。それに対して、ヘムは家庭尊重派である。
 ホーは、〈家庭に安住せずに、もう一度恋愛をしよう〉と主張している。
 そう考えながら、次の文言を読んでいただきたい。
 

 新しいチーズをみつけ味わっているところを想像するにつけ……
 
 
 読者の皆さんは、自然に次のように思ったであろう。
 

 何を「想像」しているんだ。
 このスケベ。
 
 
 そう考えてみると、次の文言も非常に意味深である。
 

 つねにチーズの匂いをかいでみること
 そうすれば古くなったのに気がつく 〔前出、46ページ〕
 
 
 たぶん、ホーは変態なのだろう、と思う。(この文章は哲学の文章なので、詳しくは書けないが。)
 ホーは別のところで次のようにも言っている。
 

 古いチーズに早く見切りをつければ
 それだけ早く新しいチーズがみつかる 〔前出、54ページ〕
 
 
 〈古い恋人と早く別れれば、それだけ早く新しい恋人がみつかる〉という訳である。〈女房と畳は新しい方がいい〉という訳である。やはり、ホーは不倫を推奨している。
 この解釈は、非常に自然な解釈である。チーズは、いろいろなものの象徴である。現に、この本には次のようにある。
 

 このチーズは、私たちが人生で求めるもの、つまり、仕事、家族や恋人……〔略〕……を象徴している。〔前出、6ページ〕
 
 
 はっきりと書いてある。「家族や恋人」と書いてある。やはり、この話は、古い「家族」「恋人」はどんどん捨てよう、という話である。新しい「家族」「恋人」を探そう、という話である。
 つまり、不倫のすすめである。
 そう解釈するのが自然である。
 
 
■ 「『古いチーズ』は、これまでの行動」?
 
 寓話「チーズはどこへ消えた?」は不倫のすすめである。
 しかし、寓話を聞いた登場人物は次のように言う。
 

 「あのね」ジェシカが言った。「みんな仕事のことばかり言っているけど、私はこの物語を聞いて、自分の私生活を考えてみたわ。私たちの仲は、かなりひどいカビがはえている『古いチーズ』になっているみたい」
 コリーもわかるよと言うように笑い声をあげた。「ぼくもそうだ。だめになった関係に見切りをつけるべきなんだろうね」
 アンジェラが反論した。「もしかしたら、『古いチーズ』は、これまでの行動を意味しているのかもしれないわ。本当に捨てる必要があるのは、関係を悪化させている行動なのよ。そうして、よりよい考え方、ふるまい方をするようにすべきなんだわ」
 「まいった!」コリーは言った。「そのとおりだよ。新しいチーズというのは、同じ相手との新しい関係のことなんだ」〔前出、84ページ〕
 
 
 なぜ、「まい」る。
 こんな屁理屈に。
 「そのとおりだよ。」とは何事か。
 テレホンショッピングの司会のような相槌である。
 コリーは、不自然な相槌を打つのではなく、落ちついて考えるべきである。
 アンジェラが言っているのは、屁理屈である。
 不自然な理屈を作っているのである。
 

 「古いチーズ」は、これまでの行動を意味しているのかもしれないわ。
 
 
 不自然な解釈である。
 「これまでの行動」を「古いチーズ」と解釈するより、〈古い恋人〉を「古いチーズ」と解釈する方がずっと自然である。少なくとも、〈古い恋人〉も「古いチーズ」も物質なのだから。それに対して、「これまでの行動」は、物質ではない。
 なぜ、もっと自然に解釈しないのか。それは、アンジェラが〈不倫は悪い〉と前もって知っているからである。〈結婚を簡単に解消するのは悪い〉と知っているからである。悪いと知っているので、〈古い恋人〉は「古いチーズ」ではないという理屈を考えたのである。
 つまり、「変化にすばやく適応せよ」の「変化」の部分に何を入れるかは、それぞれの人が考えるのである。寓意以外の情報を基に考えるのである。
 「変化」の部分に、都合がよいものを恣意的に入れる。都合が悪いものは入れない。これでは、「変化にすばやく適応せよ」は現実を明らかにする文言ではなくなる。
 
 
■ 分析的命題
 
 次の命題を見ていただきたい。
 

 よいことをするのは、よいことだ。
 
 
 それはそうである。しかし、この命題を読んでも、現実について新しいことを知ることは出来ない。この命題は、正しいと決まっている言葉であるに過ぎない。この命題が、現実を明らかにしている訳ではない。
 「よいことをするのは、よいことだ。」は常に正しい。しかし、それは言葉の規則がそう決まっているに過ぎない。「よいことをするのは」の後には、「よいことだ」と続けてよい、と決まっているに過ぎない。そして、この命題をいくら見ても、「よいこと」に何を入れるべきかは分からない。
 この命題が常に正しいのは、正しいことを意味する言葉だからに過ぎない。何ら現実を明らかにしていないのである。
 このような特徴を哲学用語では、〈分析的〉と言う。先の命題は〈分析的命題〉である。〈分析的〉とは、命題の主部から述部を引き出せるという意味である。「よいことをするのは」から〈分析〉して、「よいことである」を引き出せるという意味である。これは、現実とは無関係に正しいことが分かる。
 「変化にすばやく適応せよ」は分析的命題なのか。「変化」に入れるもの恣意的に選んで、〈この寓意は常に正しい〉と主張するならば分析的命題であろう。つまり、実質的には、次のような命題になっているのである。
 

 すばやく適応するべき変化に、すばやく適応するべきである。
 
 
 これは常に正しい。しかし、それは、正しいことを意味する言葉であるに過ぎない。
 このような〈分析的命題〉を考えることは出来ない。言葉に過ぎないものを考えることは出来ない。「それは、そうですね。」でおしまいである。
 仮に、考えたとしても、現実の問題を考えたことにはならない。〈分析的命題〉は、現実とは無関係なのである。
 原則にまとめよう。
 

 思考の対象が〈分析的命題〉になっていないかを検討せよ。
 
 
 〈分析的命題〉を考えることは出来ない。だから、思考の対象が〈分析的命題〉になっていてはいけない。現実を考えているつもりで、言葉を考えていないかを検討するべきである。
 
 
■ 不倫が悪いとされる理由
 
 アンジェラは次のように言った。
 

 「古いチーズ」は、これまでの行動を意味しているのかもしれないわ。
 
 
 しかし、「古いチーズ」は、〈古い恋人〉を意味していると考える方が自然である。〈古女房〉を意味していると考える方が自然である。
 アンジェラは、「古いチーズ」は〈古い恋人〉を意味するという考えをまず検討するべきであった。寓意に都合の悪い事例を検討するべきであった。
 それでは、ここで検討してみよう。
 「変化にすばやく適応せよ」の「変化」に〈新しい恋人〉を入れてみよう。
 

 〈新しい恋人〉にすばやく適応せよ。
 (〈古い恋人〉に早く見切りをつけよう。)
 
 
 何となく落ちつかない。
 不倫をすすめられても困る。
 一般に、不倫は悪い行為とされている。
 なぜ、不倫は悪いとされているのか。なぜ、〈新しい恋人〉に「すばやく適応」することは悪いとされているのか。
 不倫が横行しては安心して結婚生活をおくれないからである。
 結婚は、数十年にわたる長期契約である。
 長期契約を前提とするから、さまざまな共同作業が実現できる。
 例えば、次のような共同作業である。
 

 片方が仕事をやめて家事に専念する。片方は仕事に専念する。
 子供をつくる。
 ローンを組んで、家を買う。
 ……
 
 
 上のどれも、長期の結婚生活が前提条件である。来年離婚すると分かっていたら、おこなわないことである。
 つまり、結婚とは次のようなシステムである。
 

 結婚とは、長期契約を前提に、短期契約ではおこないにくい共同作業を実現するシステムである。
 
 
 長期契約を前提にするから、さまざまな共同作業が出来る。
 不倫は、結婚生活を脅かす行為である。その長期契約を脅かす行為である。
 例えば、これから二十年にわたって子育てをするつもりで子供をつくったとする。そのとたん、「新しい恋人が出来たから、別れて欲しい。」と言われたらどうだろうか。「そりゃないだろう。」と思うのが普通である。「そういうことなら、せめて子供をつくる前に言って欲しい。」と思うのが普通である。
 不倫が横行するようでは、安心して共同作業が出来ない。長期契約に基づいた共同作業が出来ない。だから、不倫は悪いことになっているのである。
 同様の事例は、社会に広くある。
 例えば、師匠と弟子の関係も「長期契約」である。来月にはやめてしまいそうな弟子を熱心に教える気にはなりにくい。
 つまり、「変化にすばやく適応せよ」は常に正しい訳ではない。反例があるのである。
 
 
■ 思考には「乱れ」が必要
 
 以上、寓意「変化にすばやく適応せよ」を疑ってみた。寓意に当てはまらない事例をぶつけてみた。反例として不倫をぶつけてみた。
 つまり、私は「変化にすばやく適応せよ」を現実と関わらせて考えたのである。言葉だけではなく、現実を考えたのである。つまり、〈分析的〉にではなく、〈総合的〉に考えたのである。
 このように現実と関わらせて考えなければ、思考するのは困難である。思考するためには、寓意に当てはまらない事例が必要である。反例が必要である。
 これは寓意の側から見れば、「乱れ」である。
 だから、次のように言える。
 

 思考するためには「乱れ」が必要である。
 
 
 私は、「乱れ」を活かすことによって、寓意の限界について思考できたのである。結婚の特徴について思考できたのである。「長期契約」を前提にする関係について思考できたのである。
 アンジェラも、「乱れ」を検討するべきだった。検討すれば、自分で寓意の限界に気がついたはずである。思考できたはずである。
 アンジェラが不倫嫌いなのはよい。しかし、「乱れ」嫌いではいけない。「乱れ」を避けては思考が出来ないからである。
 思考とは、おおざっぱに言えば次のような過程である。
 頭の中には、情報の蓄積構造がある。その蓄積された情報で、新しく入ってきた情報を解釈する。その新しい情報を解釈すると同時に、既存の情報構造が組みかえられる。(注)
 特に、新しい情報が既存の情報で解釈できない場合は、既存の情報構造を組みかえる必要がある。新しい情報を解釈できるように組みかえる必要がある。大きく組みかえる必要がある。
 「乱れ」は、既存の情報構造では解釈できない情報である。解釈できないので、頭の中の情報構造を大きく組みかえなくてはならなくなる。つまり、思考せざるをえなくなる。
 これが思考過程の中心である。
 

 思考とは、大筋で次のような過程である。
 既存の情報構造では解釈できない新しい情報を解釈しようと努めることによって、既存の情報構造を大きく組みかえる。
 
 
 既存の情報構造で解釈できない新しい情報があるから、思考できる。「乱れ」があるから、思考できる。
 アンジェラは、「乱れ」が嫌いなようである。寓話教育の推進者は、「乱れ」が嫌いなようである。それは、寓意を守ろうとするからである。現実より、寓意を優先するからである。
 しかし、それでは、思考は出来ない。
 
 
■ 「乱れ」を好きになろう
 
 「乱れ」があるから、思考が出来る。
 だから、私は「乱れ」が好きである。私は自分の情報構造の「乱れ」を常に探している。「乱れ」に注目する習慣をもっている。
 最近も、次のような「乱れ」に注目した。
 黒柳徹子氏が、テレビで次のような主旨のことを言っていた。
 

 アフガニスタンに行ったところ、タリバンの人が、女子を教育している秘密学校に案内してくれた。
 
 
 「秘密」とは、タリバンに対して「秘密」なのではないのか。
 タリバンにみつかったら、鞭打ちにされるのではないのか。
 どうして、そこへタリバンの人が「案内」するのか。
 どうなっているのか。
 私は困惑した。
 これは、タリバンに関する私の既存の情報構造では解釈できない新しい情報である。私の情報構造では「タリバンは女子教育を禁止している」のである。禁止している当人が、「案内」をする訳がない。
 これは大きな「乱れ」である。自分の既存の情報構造に、欠けている情報があるのを感じる。
 頭の中の情報構造には、はっきりしていない箇所や欠けている箇所がある。分からない箇所がある。分からない箇所をはっきりさせるためには新しい情報が必要である。新しい情報を探す必要がある。現実に、タリバンが女子をどのように扱っているのかを知る必要がある。
 その情報が入るまでは、私の情報構造には、はっきりしない箇所があるままである。しかし、それは、そのままにしておいてもよい。新しい情報が入った時に、はっきりさせればよい。
 

 「乱れ」を好きになろう。
 
 
 情報構造には、はっきりしていない箇所や欠けている箇所があるのが普通である。分からない箇所があるのが普通である。分からない箇所があることを認識しよう。
 分からない箇所があることを認識するのは不安である。しかし、現に分かっていないのである。不安なままでいるしかない。
 「タリバンは女子教育を禁止している」のか。「禁止してい」ないのか。
 現実は、どうなっているのか。全く分からない。不安である。
 読者の皆さんも、私と一緒に不安になって欲しい。
 分からない箇所があることを認識し、不安になるからこそ、情報構造を組みかえることが出来る。新しい情報を組み込みことが出来る。
 別の言い方をすれば、思考するためにはオープンな情報構造が必要である。いつでも変わる準備がある情報構造が必要である。柔らかい情報構造が必要である。
 それに対して、寓話には堅い構造がある。寓話には「乱れ」が無い。
 言いかえれば、寓話の構造には変わる準備がない。外からの情報を受けつけない。不倫のような反例を受けつけない。クローズドな情報構造なのである。
 だから、寓話はつまらない。
 頭のためにならない。
 頭のために「乱れ」を好きになろう。
 
                       (2001年12月6日)
 
(注)
 
 情報の蓄積構造の詳細な説明は次の本にある。
 宇佐美寛『授業にとって「理論」とは何か』明治図書、1978年

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 ◆インターネット哲学【ネット社会の謎を解く】◆ 19、20号掲載
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