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● 『チーズはどこへ消えた?』批判
             −−寓話を教育に使うな 

                   諸野脇 正@インターネット哲学者
                  【e-Mail】 ts@irev.org
                  【Web Site】 http://www.irev.org/
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■ 押しつけがましいベストセラー
 
 子供の頃、寓話を読んだ。
 「アリとキリギリス」である。
 

 夏、アリは黙々と働いていました。キリギリスは、その間、歌って遊んでいました。冬になり、アリは暖かい家で楽しく過ごしていました。そこに、飢えたキリギリスが助けを求めてきました。……
 
 
 この話の寓意は、次のものであろう。〈先のことを考えて、地道に働かなくてはいけない。〉
 この話を読んで、皆さんはどう思ったであろうか。何か新しいことを知ったと思ったであろうか。役に立つ話を読んだと思ったであろうか。感動されたであろうか。
 そんなことはないであろう。寓話を読んだ時の大人の自然な反応は、次のようなものであろう。
 

 確かに、そういうこともあるね。でも、そうでないこともあるんじゃないかな。まあ、作り話だね。
 
 
 現実は、もっと複雑である。
 一見遊びのように見える行動が、本人の将来の役に立つことがある。将来の仕事が見つかったりする。大体、人間はキリギリスでないので、冬になっても死にはしない。
 だからと言って、多くの人は、寓話を批判する気にならないであろう。寓話は寓話である。気楽に読んでいるのである。寓意を現実に当てはめようとは思わない。
 しかし、寓意を押しつけられたらどうであろうか。現実に当てはめることを要求されたらどうであろうか。うんざりするであろう。何か言い返したい気になるであろう。
 寓話好きの中小企業の社長を想像してもらいたい。「アリとキリギリス」の話をして、次のように言うのである。
 

 君らも、アリのように働け。
 
 
 「アリのように」と言われても困る。現実は、もっと複雑なのである。
 まともな大人は、寓意を現実に当てはめようとは思わないものである。寓意で現実を認識しようとは思わないものである。
 このような場合、一言言い返したくなる。批判したくなる。
 私がベストセラー『チーズはどこへ消えた?』に感じたのは、このような感覚である。押しつけがましさである。
 
 
■ 寓話と寓話教育の区別
 
 寓話は気楽に読めばよい。しかし、寓意を押しつけるのは間違いである。寓意を現実に当てはめるように求めるのは間違いである。つまり、次の二つを分けなくてはいけない。
 

 1 寓話(寓話それ自体)
 2 寓話教育(寓意で現実を認識させようとする教育)
 
 
 1はよい。しかし、2は間違いである。現実は、寓意で認識できるほど単純ではない。だから、寓意で現実を認識させようとすると扇動になってしまう。原則として、寓話は教育から排除するべきである。
 『チーズはどこへ消えた?』をどう考えるか。
 1なら、私は批判しようとは思わない。しかし、『チーズはどこへ消えた?』は単純な寓話ではない。教育を狙っているのである。寓意を役立つものとして、読者に受け入れさせることを狙っているのである。つまり、1だけでなく、2を含んでいる。これは批判しなくてはならない。
 『チーズはどこへ消えた?』は、おおむね二つの部分から成り立っている。それは、寓話部分とディスカッション部分である。寓話を読んだ人が話し合う部分がある。寓意を現実に当てはめる部分がある。
 

 マイケルが物語を話しおえ、部屋を見まわすと、かつてのクラスメートたちが微笑んでいた。
 数人が感謝の言葉を口にし、物語から多くのことを学んだと言った。
 ネイサンがみんなに聞いた。「あとでまた集まって、話し合ってはどうだろう。」
 ほとんどが同意し、あとで夕食前の一杯をやりに集まることになった。
〔スペンサー・ジョンソン著、門田美鈴訳『チーズはどこへ消えた?』扶桑社、2000年、73ページ〕
 
 
 そして、この後、クラスメート達は、「物語」がいかに役立つかを話し合うのである。つまり、『チーズはどこへ消えた?』は、寓意を現実に当てはめようとしている。教育を含んでいる。2の部分を含んでいる。
 まともな大人は、寓話から「多くのこと」は「学」ばないものである。「学」ばせようとすると無理がある。だから、扇動になってしまうのである。
 以下、詳しく説明する。
 
 
■ 「変化にすばやく適応せよ」?
 
 簡単に、『チーズはどこへ消えた?』の寓話部分をまとめておこう。
 

 二匹のネズミと二人の小人がいた。彼らは迷路でチーズを探して暮らしていた。
 ネズミも小人もチーズ・ステーションCで大量のチーズを見つけた。
 そして、幸せに暮らしていた。
 しかし、ある日、チーズ・ステーションCからチーズがなくなった。
 ネズミのスカリーとスニッフは事態を詳しく分析したりはしなかった。直ぐに、新しいチーズを探しに出かけた。
 それに対し、小人のヘムとホーはうろうろするばかりだった。
 ヘムは繰り返し事態を分析してみた。「どうしてこんなめにあうんだ?」「実際には何が起こっているんだろう?」
 その頃、ネズミたちはチーズ・ステーションNで大量の新しいチーズを見つけていた。
 ヘムは言った。「腰を下ろして、事態を見守っていたほうがいいんじゃないかな。いずれチーズは戻ってくるはずだ。」
 しかし、チーズはいっこうに現れなかった。
 何日も経って、二人は空腹とストレスでどんどん弱っていった。
 ホーは言った。「そうは思いたくなかったけれど、もうあの古いチーズが戻ってくることはないってことがやっとわかったんだ。あれはもう過去のものだ。新しいチーズをみつけるべきなんだよ。」
 ホーは見切りをつけ、先に進んだ。
 長い時間、ホーはチーズを探し続けた。
 ついにチーズ・ステーションNで大量のチーズを見つけた。
 そして、壁に自分が学んだことを書いた。
 「変化は起きる」
 「変化を予期せよ」
 「変化を探知せよ」
 「変化にすばやく適応せよ」
 「変わろう」
 「変化を楽しもう!」
 「進んですばやく変わり 再びそれを楽しもう」
 
 
 この寓話の寓意は明らかであろう。何しろ、はっきりと書いてあるのだから。
 一つだけ選ぶとすれば、「変化にすばやく適応せよ」である。
 しかし、本当に「変化にすばやく適応」するのはよいことなのか。それは、時と場合による。
 この場合は、確かに「変化にすばやく適応」したホーが成功した。ヘムは失敗した。事態を分析するアプローチを取ったヘムは失敗した。
 しかし、これは、そのように話が作られたに過ぎない。ヘムが失敗するように状況が設定されたに過ぎない。非現実的に状況が設定されているのである。
 
 
■ 分析なしでは「適応」できない
 
 寓話『チーズはどこへ消えた?』の状況設定は非現実的である。私達は、現実において迷路にいるわけではない。突然、チーズが現れることもない。
 ヘムは、この非現実的事態を分析しようとする。「実際には何が起こっているんだろう?」
 しかし、その分析アプローチは成功しない。当たり前である。この話の事態は分析のしようがないくらい不条理なのである。
 突然、チーズが現れる。チーズが消える。誰が(何が)それをしているかは分からない。確かに、これでは分析しても無駄である。
 しかし、現実の事態は、そのように不条理ではない。小売店を経営していて、客が減ったとする。この場合、何らかの形で原因が分析できるはずである。デフレが起こって、自分の店の商品が割高になってしまったのか。消費者の嗜好が変化して、商品が陳腐化してしまったのか。大規模店舗に客を奪われたのか。……
 「変化にすばやく適応せよ」と言う。しかし、事態の分析なしには、何が「変化」かも分からないではないか。このような場合、分析なしで次の行動は決められない。つまり、分析なしでは「適応」できない。
 
 
■ 分析的だから行動的
 
 ヘムは、非行動的である。しかし、分析的な人が、常に非行動的になるとは言えない。分析してよく分かっているゆえに、行動的になることがある。また、同時に、分析してよく分かっていないゆえに、非行動的になることもある。
 私自身の例を挙げる。
 ある有名な先生にメールマガジンの原稿を依頼しようとしたことがある。
 次のような意見が出た。
 「それは、無理ですよ。原稿料はどうするんですか。」
 私は答えた。
 「無料でお願いしてもよいのです。インターネットの場合、無料でも、○○先生にも得るところがあります。まず、ご自分の主張が広がります。それから、ご自分の本の宣伝にもなります。リンクを張って、ご自分のホームページのアクセスを増やすことも可能です。」
 結局、無料で引き受けていただいた。
 これは、分析したから行動的になれた例である。インターネットについて、私は分析してよく分かっていた。だから、行動的になれた。分析的だから行動的になれたのである。それに対して、分析していない人は非行動的であった。
 しかし、ヘムの場合はどうか。
 事態が全く非現実的なのである。だから、分析しても、何も分からない。行動的になれるほど、事実が明らかにならない。ヘムに不利な状況設定になっているのである。
 
 
■ おっちょこちょいな人柄
 
 ホーは次のように言った。
 

 そうは思いたくなかったけれど、もうあの古いチーズが戻ってくることはないってことがやっとわかったんだ。あれはもう過去のものだ。新しいチーズをみつけるべきなんだよ。〔前出、38ページ〕
 
 
 なぜ、そんなことが「わか」るのか。おっちょこちょいである。
 どのようなシステムでチーズが現れるか全く不明なのである。事実が分からないのだから、判断のしようがない。判断のしようがないことを、確信を持って「わか」るのは、おっちょこちょいである。
 ヘムは次のように言った。
 

 腰を下ろして、事態を見守っていたほうがいいんじゃないかな。いずれチーズは戻ってくるはずだ。〔前出、36ページ〕
 
 
 もちろん、こちらもおっちょこちょいである。「戻ってくるはずだ」と断言は出来ないはずである。事実は全く不明なのである。
 ホー・ヘムどちらも、おっちょこちょいな人柄である。別の言い方をすれば、非現実的な人柄である。自分がその場にいたら同じように考えるであろうという現実感がないのである。
 寓話『チーズはどこへ消えた?』は、非現実的な状況の中で非現実的な人柄の小人が苦悩する話である。状況・人柄ともに非現実的なのである。
 
 
■ 動かなかったヘムが成功してもよかった
 
 状況は非現実的なのである。チーズについての事実は全く不明なのである。だから、ホーとヘムのどちらも正しい可能性がある。「古いチーズ」が「戻って」くる可能性もあるし、「戻って」こない可能性もある。この話の場合は、たまたま「戻って」こなかっただけである。作者が寓意を成り立たせるために、そのように状況を設定したのである。
 だから、逆の話を作ることも、可能だった。つまり、「新しいチーズ」を「みつけに」出かけたホーが破滅し、動かず待っていたヘムが成功する話である。「古いチーズ」が「戻って」きて、「新しいチーズ」は「みつ」からない話である。「変化にすばやく対応」しない方がよかった話である。
 寓意など、この程度のものである。一面的なものである。恣意的なものである。こんな恣意的なものを、どうして現実に当てはめなくてはならないのか。
 
 
■ 「変化にすばやく適応」して四〇〇〇ボルトで死亡
 
 さらに、具体的に検討しよう。
 寓意に事例をぶつけよう。寓意に当てはまらない現実の事例をぶつけよう。「変化にすばやく適応」しようとして、失敗した人を挙げてみよう。
 例えば、アメリカの少年(?)スコットである。スコットはペルセウス座流星群を見ようとしていた。しかし、周囲が明るいため、流星群がよく見えない。
 

 近くでギラギラ光る街灯に腹を立て、根元の点検パネルをペンチでこじあけ、なんと四〇〇〇ボルトの電源コードにのこぎりの歯を当てたのだ。こうしてスコットは、妹のキンバリーの目の前で閃光とともに弾き飛ばされ、天体観測をはなばなしく打ち切った直後に、ホーグ記念病院で死亡を宣告されたのだった。〔ウェンディー・ノースカット著、橋本恵訳『ダーウィン賞!』講談社、2001年、134〜135ページ〕
 
 
 スコットは「変化にすばやく適応」した。流星群が見られないという「変化」がある。見られない原因は「ギラギラ光る街灯」である。だから、スコットは、その街灯を消そうとした。「適応」しようとした。「すばやく」「のこぎりの歯を当てた」のだ。しかし、死んでしまった。
 スコットにも聞いてみるべきではないか。仮に、幽霊になったスコットの話が聞けるとする。スコットは何と言うであろうか。たぶん、次のように言うであろう。
 

 もう少しよく考えるべきだった。
 変化にすばやく適応するのは考えものだ。
 
 
 スコットの話も聞かなくてはいけない。スコットの話を聞けば、「変化にすばやく適応せよ」という寓意が疑わしく思えてくる。
 
 
■ 「変化にすばやく適応」して千四百億円の借金
 
 もう一つ事例をぶつけてみよう。
 ウイークリーマンションのツカサの川又三智彦社長は言う。
 

 不動産業者向け融資の総量規制実施に端を発してバブルが崩壊、話題を集め急拡大を続けてきた当社のウィークリーマンション(週単位のマンション賃貸)事業も突如として資金繰りが行き詰まった。ピークには評価額で二千億円以上、含み資産で千億円という「大富豪」が一夜にして、千四百億円余の借金を抱える身に転落してしまった。
 八九年から九〇年にかけて、銀行やノンバンクが頻繁に当社を訪れ、一案件あたり百億円単位の投資に進んで融資してくれた。着工中のマンション十二件、未着工だが用地確保済みの大型物件十六件を抱え、融資額はあっという間に倍に膨らむ。それが、融資規制強化を機に銀行の態度は一変した。客足が落ち着いてきた今でも銀行の冷たい態度は変わっていない。〔『日経産業新聞』1997年12月8日〕
 
 
 川又氏にも聞いてみた方がよい。「変化にすばやく適応」したのがよかったのか。
 「銀行やノンバンクが頻繁に当社を訪れ、一案件あたり百億円単位の投資に進んで融資してくれた」という「変化」がおこったのである。川又氏はこの「変化」に「すばやく適応」したのである。
 しかし、川又氏も今となっては後悔しているのではないか。「適応」するべきではなかったと思っているのではないか。何しろ、氏は「千四百億円余の借金を抱える身」になってしまったのである。
 川又氏の話も聞かなくてはいけない。川又氏の話を聞けば、「変化にすばやく適応せよ」という寓意が疑わしく思えてくる。寓意の一面性・恣意性が見えてくる。
 
 
■ 寓意は事態の分析の代わりにはならない
 
 次のように言う人がいるかもしれない。
 
 「川又氏は、変化にすばやく適応していない。八九年では遅すぎる。」
 
 それはそうである。しかし、それは今だから言えることである。当時としては、川又氏は「すばやく適応」したつもりであったろう。少なくとも、なんらかの利益が出ると思っていたのであろう。当時、一般には、地価は永遠に上がり続けると思われていたのである。
 八九年当時に戻って考えてみよう。川又氏は、金融機関から巨額の融資の申し込みを受けた。この申し込みを受けるかどうか。申し込みを受けるのが、「すばやく適応」に該当するかどうか。このような判断は多くの人にとって難しかったであろう。
 注目していただきたいことがある。このような判断をするためには、寓意は役に立たないことである。申し込みを受けるかどうかを考えるためには、現実をよく見なくてはいけない。事態を分析しなくてはいけない。経済状況を分析しなくてはいけない。
 もし、仮に、寓意を役立てたとするとどうなるか。判断がいい加減になる。
 川又氏が次の寓意を意識していたとする。
 

 変化にすばやく適応せよ
 
 
 どうなるか。
 金融機関からの融資の申し込みは「変化」である。「これは新しいチーズなんだ。」などと考る。「すばやく適応」したくなる。そして、巨額の融資を受けることになる。その結果は、巨額の負債である。破産である。
 寓意で現実を認識しようとするのは無理なのである。
 

 寓意は事態の分析の代わりにはならない。
 
 
 寓意で現実を認識しようとすると、事態をよく見る必要がなくなる。寓意に対応する事実があると思い込んで事態を見ることになる。事態を分析する必要がなくなる。それは、いい加減な判断、おっちょこちょいな行動を導きやすいのである。
 
 
■ 寓意は事実をよく見ないから成り立つもの
 
 以上、寓意に事例をぶつけてみた。寓意を疑ってみた。寓意の一面性・恣意性をご理解いただけたと思う。
 要するに、『チーズはどこへ消えた?』は、都合のよい例しか挙げていなのである。都合の悪い例は見落としているのである。見落としているから、話が成立しているのである。
 クラスメート達は、寓話「チーズはどこへ消えた?」について話し合っていた。その寓意が当てはまると思われる事例を挙げていた。
 しかし、なぜ、次のように言い出す者が一人もいないのか。
 

 でも、変化にすばやく適応したために、失敗した人もいるんじゃないかな。そういう人の事例を挙げてみよう。
 
 
 彼らは、そのような事例に注目するべきであった。上のスコットや川又氏のような事例を自力で挙げるべきであった。
 そうすれば、寓意の恣意性、一面性に自分で気がついたはずである。
 
 
■ 『チーズはどこに消えた?』は「道徳」の授業
 
 宇佐美寛氏は、学校での「道徳」授業について言う。
 

 イソップの寓話には、寓意と無関係な事実は書かれていない。読者は寓意を知りさえすればいいのである。寓意を知りさえすれば、その上に考えねばならない問題というものは無い。また、考える材料となるような事実は書かれていないから、考えようがない。寓意に都合のいい事実しか書かれていないから、寓話の外側で読者が経験する事態との関係は不明である。
 このような性質、つまり寓話的構造は「道徳」の資料に一般的である。
 道徳とは、社会的状況における個人の意志決定のしかたのことである。社会的状況は複雑・多因子的な事実であり、寓意で小ぎれいに整理できるようなものではない。
 おおかたの「道徳」授業は、右の意志決定をより賢明なものとするためには全く役立たない。寓意を優先させ、事実を軽視しているからである。〔初出「寓話的構造」『中学校学級経営』1988年9月号、再録『「道徳」授業に何が出来るか』明治図書、1989年、182ページ〕
 
 
 この「道徳」授業の分析が、そのまま『チーズはどこへ消えた?』に当てはまる。『チーズはどこへ消えた?』は、寓話を使った教育を狙っている。しかし、現実は、「複雑・多因子的」なのである。寓意で「小ぎれいに整理」できないのである。だから、寓話を使った教育は、「意志決定をより賢明なものとするためには全く役立たない」のである。
 スペンサー・ジョンソンは、宇佐美氏の文章を読むべきだった。
 読めば、寓話教育の間違いに気がついたはずである。
 
 
■ 〈寓意くだき〉
 
 寓話教育を受けずにすめば、それでよい。
 しかし、寓話教育を受けなければならないことがある。
 社長・教師などが寓話好きなことがある。
 最初に、寓話好きの社長の例を挙げた。「まさか。こんな社長はいない。」と思われた方もいるかも知れない。
 しかし、現実にいるのである。寓話好き社長が。
 

 私は『チーズはどこへ消えた?』の物語がもつ力を確信しているので、最近、まだ本になる前の原稿をコピーして、わが社の社員全員(二百人以上)に配った。〔前出、8ページ〕
 
 
 ご愁傷さまである。
 社長に「配」られたら、読まざるをえない。
 このような時は、どうしたらよいのか。
 寓意を押しつけられたら、どうしたらよいのか。
 私がしたようにすればよい。
 

 寓意に事例をぶつける。その寓意に当てはまらない事例をぶつける。
 
 
 このように寓意を疑えばよい。〈寓意くだき〉をすればよい。
 〈寓意くだき〉が出来れば、寓意に頭を犯されずにすむ。非現実的な頭にならずにすむ。(もちろん、疑った内容を社長に言うかどうかは別の問題である。)
 原則として、寓話は教育から排除するべきである。しかし、押しつけられてしまう場合がある。その場合は、非現実的な頭にならないように自分で対処しよう。
 寓話は、考える材料に過ぎない。寓話という非現実的な材料でも使いようによっては頭のためになる。
 出来るだけ頭のためになることをしよう。〈寓意くだき〉をしよう。
 
 
■ 教育とは寓話に感動しない傾向を育てるもの
 
 寓話は気楽に読めばよい。しかし、寓意に頭を犯されてはいけない。寓意で現実を認識できると思ってはいけない。現実は、寓意で認識できるほど単純ではない。
 だから、現実の複雑さを知っている大人は、寓話に影響は受けないものである。寓話に感動はしないものである。
 それにもかかわらず、『チーズはどこへ消えた?』にかかっている帯には次の文言がある。
 

 読んだその日から、あなたの人生が変わる!
 
 
 とんでもないことである。
 そんなに簡単に「人生」は「変わ」らない。また、仮に「変わ」ったとすれば、それはよくないことである。おっちょこちょいである。
 次のように言う大人をあなたは信用できるか。
 

 今日、「アリとキリギリス」を読んで、感動したよ。
 人生が変わったよ。
 
 
 私は信用できない。それは、非現実的な頭の人物だと思うからである。未熟な人物だと思うからである。
 ほとんどの人がそうだろう。
 同様に、次のように言う大人も信用できない。
 

 今日、「チーズはどこへ消えた?」を読んで、感動したよ。
 人生が変わったよ。
 
 
 感動してはいけない。
 成熟した大人は、寓話には感動しないものである。教育とは、未熟な子供を成熟した大人にする行為である。だから、次のように言える。
 

 教育とは寓話に感動しない傾向を育てるものであるべきだ。
 
 
 現実は、「複雑・多因子的」なのである。教育とは、その「複雑・多因子的」な現実を認識させるものであるべきだ。「複雑・多因子的」な状況での「意志決定を賢明」にするものであるべきだ。
 寓話は寓話にすぎない。寓意に頭を犯されてはいけない。
 もし、あなたが変化に直面したならば、寓意に頼らず考えよう。
 事実に即して、考えよう。
 
            (2001年11月22日)
 

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 ◆インターネット哲学【ネット社会の謎を解く】◆ 15〜17号掲載
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